昭和54年07月12日 朝の御理解
御理解 第91節
「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」
教祖様御自身の事を言うておられると思います。人間が幸せになっていけるという、人間が本当の幸福になる事の為には、信心によらねば人間の幸福というのはあり得ない。という所を眼目にして、そんならば人間の、例えば幸福の条件というものが、足ろうて来る事の為の修行をあらゆる角度からなさった。
そして、はっきり御教へを下さってあるんだけれども、そのはっきりの、教えて下さってあるんだけれども、それがはっきり分からない所に、私共のまぁ信心精進が要るし、また実験実証が積み重ねられていかねばならないという事になります。昨日、教主様のお書きになったもう二十数年も前の、お若い時のものであると思われます。その中の一枚、昭和二十九年七月二十八日と裏に書いておられます。その時分に、日田の竹野さんがあちらの金光様の御宅を建てられました。
それで、あちらのお家の模様とか、また神様を奉斎してある模様という事が、あちらならば分かっておられるというので、今度、こちらの礼拝所の方の御建築を竹野さんにお願いする事になったんです。これは、竹中組でも分からないわけです。この神様の、金光様のご信心の奉斎様式が分かりませんから、竹野さんに。そしたら竹野さんも大変喜ばれて、これは家に置いとっても宝の持ち腐れだから、その当時、金光様から頂いた短冊を合楽の親先生に差し上げてくれというて、ことづかってみえたんです。
その中には三代金光様の、こりゃあ絶筆になった訳ですけれども、 三代金光様の御短冊までございます。二枚は今の教主様のお書きになったものの中に、どうしても判読できない。もう読めない。金光様のは、なかなか読みづらいですもんね。もうまるっきり絵を描くようにして書いておられますから、もう素晴らしいんですねこれは。けれどもさぁ随分、そのうなんとか折角頂いておるのに書いてあるのが、何と書いてあるのかわきゃ分からん。思うですからね、それでそのう、確かに何か教えになる様な事は書いてあるとばっかり思うて見よりましたら、なかなかでしたけれども、これはそのう金光様はもう素晴らしいあのう歌人であられます。
お歌をはぁもうそれこそもう名人の域を、域じゃなくてからもうあれは素晴らしいインスプレーションでしょうね。もうあのう「土」という歌集が出ております。もう五冊出けとります。限りなく出来るんですね。これはやっぱり、私が昼の御理解を今塗板に書いとりますのなんかでも、私がもっと教養があって勉強しとったら、もっと素晴らしい歌が出けるんでしょうけれども、やはり私の一つのインスプレーションに現れてくる歌が、この頃歌が多いでしょう。そんなふうな訳ですが。
金光様の俳句、句というものは、今まで聞いた事がなかったですけれども、これはどう考えても、だから今分からせて頂く事は、句である。俳句なんですよね。そしてまぁいろいろ分からせて頂いたのはね、「わが願いを叶えておぼろの道を行く」とあります。俳句です。「わが道を叶えておぼろの道を行く」と。それこそあのう歌の文句じゃありませんけれども、あれは芸者ワルツかなんかという歌にありましたよね。宴会なんかの時によう出ます。
「逢わねば良かった今宵のあなた これが苦労の始めでしょうか」というのがありますでしょう。いうならば、好きな人が出来た。それが果たして苦労の始めでしょうか。だから、苦労の始めといえば苦労の始めであり、こんな幸せな事はない。こんな言うならば嬉しい事はない。とも頂けるわけです。一生好きな人に巡り合わなかったという人があるかもしれない。一と時でもやはり苦労の始めとも言えますし、または幸せの始めとも言えるわけです。
今日は九十一節ですからね、いうならば苦の始まりという所をです、教祖金光大神様も人間が真実幸福になってゆくことの為の、それこそ人が助かりさえ出来ればという御信心ですから、どういう生き方あり方にならせて頂いたら、人間が幸福になるであろうかという事に精進なさったお方だと私は思います。だからこういう事であっては幸福にゃなれん、こういう事であったら一生、それこそお釈迦様がおっしゃるように、この世は苦の世、苦の世界で終ってしまわねばならないのではないか。
それをこの世極楽と思えれる、いうならば世界にしてゆく為には、どういう信心をという所に、天地金乃神様は教祖金光大神様を通して、それこそもう前代未聞、今まで聞いた事がなかった、宗教からは得られなかった信心をお説きになったわけです。だからそれこそあられぬ行をなさったわけです。そして、ここにです言うならば一切が神愛、それこそ先日頂いたように「開けてみれば愛」という事なんです、ね。
「一切が神愛」神様のいうならばお働きの中には、氏子が憎たらしいからと言った様なものはない、氏子可愛ゆいの御一念だけ。その過程においては、神様の御演出というでしょうか、まぁ痛い痒いからね、悲しい苦しいと言った様な事もあるけれども、その実態というものを開けてみれば愛であったという事になるのです。だからそこが悟れた所の、いうなら人生というものは、もうそれこそいうならばバラ色の人生という事になるのです。だからそこが悟れねばいけんという事になるわけですね。
人間の心の中を割ってみれば、恥かしながら浅ましながらね、色と欲と言う様な事を言った人があり、まさしくその通りなんです。人間の心の中には、もう本当に色と欲なんです。それで浅ましい事が、何と人間というのは浅ましいもんだろうか、それに言うならば挑戦するというか、それに取り組んでそれを取り除こうとする所に、いばらの道という様な事にもなりかねない訳ですけれども、教祖金光大神様はその中にね、言うならば、全ての事に「御」の字をつけて、これは教祖様の御信心を頂いてそれを吟味してみたら、私の表現で言うと、一切を御の字をつけて頂くという事になったわけなんです。 御食欲であり御性欲であり、総ての事柄に御の字をつけるということ。そこにです言うなら例えば、それが人間の心の中を割ってみれば色と欲というてもです、その色と欲とが素晴らしいコントロールされてくるわけです。そして答えは有難いなあ、本当に勿体ない事だなぁという毎日を過ごせる事になるのです。私はこの、教主様のまぁお若い時のこの句を見せて頂いて、まあいろんな事を連想させて頂きました。
「わが願いをかなえておぼろの道をゆく」今の丁度金光様の、今のお姿でもあろうかと思います。だんだん糖尿病の為に、目が薄うなってみえられた。そして、それこそおぼろの道をゆくように、ぼんやりとしてみえた。先日光橋先生がお届けしておりましたが、先生が学院で修行中に、金光様の裏の履物とか、雨が降る時には傘なんかをお持ちする御用を、あちらで一年間御用を承った。
ある時お湿りの時に傘をこう差し上げたら、そこをこうこうして探られるんだそうです。その時分からそんなにお悪かったんです。それをやはりまぁ御辛抱になって、今日までおかげを頂いておられた訳ですけれども、まぁいよいよその目の手術をなさるという事になりましょう。けれどもやはりまぁ正眼に戻られるという事はないでしょう。わが自分の願いが叶うたといいながら、やはりおぼろの道をゆくのである。
そんなら私共、教祖金光様が、いうなら御一生をかけられて、天地金乃神様の御信心を厚く頂かれて、今までの宗教家が説き得なかった素晴らしい御教へを、お説き頂かれるまでには、大変なあられぬ行もなさったけれども、それが分かってみれば、それこそ開けてみれば愛という事になったわけです。それを私共はこう頂いて行じておるけれども、これは分かった、これははっきり分かったという事は、先ず絶対ないと思うですね。まぁだ心の中にはおぼろげなものなんです。
ははぁそうかな、だからその道をおぼろげでも、それが辿っていけれるという事が私共の幸せです。だからそれを辿っていかなければ、お道の信心の言うならば素晴らしい喜びにはふれられないです。例えばならこれが苦労の始めでしょうかで、苦労に始まって苦労に終ってしまうような人生から、いうならば、ここん所が悟れ、ここん所が分かれて、いうなら、ここのへんのコントロールのあり方というものが、日々の信心修行によって出ける所に、もうこんな汚いものと思うておったことが、こんなにも素晴らしい有難いものであったと御礼がいえる事になってくるわけです。
コントロールだけじゃでけん。分かっただけでは、ああそうかというで言うわけにゃいけん。信心が出けた上にも出けて分からせて頂いて、一つの悟りが出けてくる。成る程開けてみれば愛と言う様なものがです、はっきりではなくておぼろげにでも分からせて頂く所から、いよいよ信心の、いうならば妙賀につきると思われる程しの、信心生活が出けるようになってくるのじゃあないでしょうかね。
教祖の神様はそういう意味において、あられぬ行をなさって、言うならばおぼろげにで も人間がこの道を行けば絶対だ、この道を行けば絶対極楽行きだ、いや合楽世界にも到達出来るんだという事を、言うなら教えておられる。それを噛んで含めるように説き明かしてあるのが、合楽理念だというふうに思うんです。だから、いよいよ合楽理念をマスターする、分かっただけじゃあなくて、それを実験の上に現わして、実証。
成る程自分でこんな浅ましい、こんな私のような者と思うておる時には、おかげ頂かなかったけれども、こんなに素晴らしい、こんなに有難い事という事になったら、おかげの道がさあっと開けてくるんです。そういう素晴らしい事なんですから、せっかくのあられぬ行をして下さったのですから、私共、後々の物は容易うおかげの受けられる手立てをです、合楽理念に求めたいと思うですね。
どうぞ。